2012年12月28日金曜日

三匹の変態

11月の終わりに上原ひろみさんの福岡公演を見た。

 ピアニスト。

 今回のライブも


この曲で始まりました。
映像に有るような、いや、それを上回るテンションで。
 一曲目を聞き終わった感想は 「こいつらアホやな…」でした。

 最高にぶっ飛んでて火花がステージ上に飛び散っています。
 今から2時間以上ある演奏をこんなテンションで始めやがって。
 最後まで保つ訳が無い… 

でも、あっさりと彼らはやり抜きました。
グルーヴの構築と破壊と変拍子と笑顔と互いのコンタクトを繰り返しながら。 
卓越した才能ととんでもない努力の上なのでしょうが
演奏してる姿を見るだけでも 見ているこちら側を幸せな興奮に包んでくれます。

 僕はピアノの技術的な上手下手は全く分かりませんが 彼女の演奏にはぐっと来ました。

 思いついたフレーズを即座に音に。いや 思いついてすらいないかも知れません。
 それまでに培って来た訓練された指先が勝手に動いて
リズムに反応しているのかも知れません。
 とにかくタッチが正確だし音量の粒も揃っているし
タイム感も抜群な印象を受けました。 

とにかくバンドとして素晴らしかった。
ドラムの音がすごく良かったし、ベースも言わずもがな。
それぞれ基本的には曲を構築しようとしているけれども所々で
「もう一つ音を突っ込んでやる」とか 「ここだけ奇数泊にアクセント付けちゃうもんね」とか色んな事をしてきます。
とんでもない技術と音楽的アイディアでもって。

 愛すべき三人の変態達。 

ジャンル的にはざっくり分けるとJAZZになるのでしょうか。 とにかくかっこよく凛々しい女性ピアニストを見ることが出来ました。

2012年11月4日日曜日

あなた 自分の事好きでしょう?

先日の妻からの質問。 「え、別にそうじゃないよ…」と答えた。 毎日何かしらの失敗をするし、作りかけの曲もいいフレーズが浮かばないし メロディに見合うだけの強い言葉が見つからないし今シーズンのバッティングも納得いかなかったし打率も低かったし正面のライナーの伸び具合を見誤ったし、ヒラメも釣れないし。 妻は「へー」と何だか腑に落ちてない感じの反応。 後日、答え方を間違ったと思い切り出した。 「この前言ったのは間違ってた。  好きでもないし  嫌いでもない」 また屁理屈言い始めたって感じの表情だ。 慣れてるから続けさせてもらおう。 「俺は空気が好きだとか嫌いだとか思った事は無い。水素が好きか嫌いか思った事は無い。  酸素が好きか嫌いか思った事は無い。ものすごく身近で生存に不可欠なものなのにだ。  俺は俺の事を、既に存在していて意思の主体であるものと認識しているので  好き嫌いの対象として見た事は一度も無い」 「ふーん」 彼女の求める答えには多分程遠いのだろう。 外部に対しては好き嫌いがかなりはっきりしているのだが、自分に対して好き嫌いで判断する機会が今まで無かった事に驚きつつ、この先もあんまりないだろうなと思う晩秋。

2012年10月15日月曜日

海のルアー

最近ハマっている。 夜中に目が覚めて急に釣りに行きたくなった時に エサを買いに行かなくていいのだ。 釣果はエサ釣りよりも今の所は低いけれど そこは腕を磨いて、伸ばしてゆくのだ。 写真は小戸で釣れたシーバス。5~60センチ? 長さ計らずに食ったからわかんね。

2012年9月1日土曜日

リンゴ仕掛けのオレンジ



ORANGEアンプを試運転。
ミドルレンジに張りの有る、そしてよく歪む
いいアンプです。

2012年8月17日金曜日

ハンマーが振り下ろされるべきは

「いじめ」という言葉を使うようになったのはいつからだ? 1979年に小学校に入学したときには 多分そんな言葉は誰も使ってなかったような気がする。 中学校に進学し、素直で真面目だった友人達が不良になり始め 先輩達に取り込まれてタバコを吸い始めた。暴力沙汰も耳にした。 世間では積木崩しや家庭崩壊といった言葉が蔓延していた時代だ。 経済は発展し、消費は尊い事だとされた。真面目はかっこわるく ネアカは素敵な事だとされた。MTVが放送され、歌詞も分からないのに こぞってみんな洋楽を聴き始めた。 あまり容姿のよろしくないクラスの女子の一人が「マドンナ」と呼ばれ始めた。 誰かが悪ふざけで呼び始めたのだ。 その子意外にも学年の何人かが「マドンナ」の称号を手にした。 彼女達は汚いモノとして席替えのときも忌み嫌われ、善意で拾った消しゴムも 渡した相手から指でつままれる様に受け取られる事になった。 無視やシカトが日常の風景で 食事のときも自然と集まるようになり いつのまにかマドンナ4人衆として認知されるようになった。 誰が言い始めたのかは今となっては全く分からない。だが ケガレの感覚というものは伝染する。 僕の小学校時代からの知り合いもその4人衆の一員をなしていた。 彼女に対して積極的に何かした訳ではないが、自然と話す事も接する事も減っていった。 何しろ思春期の男子中学生なんて性欲に衝き動かされて 楽しい事と奇麗なものとロックンロールにしか興味が無いのだ。 博愛の精神なんかずっと教室の引き出しの中に入れっぱなしだった。 彼女達に僕が出来るのは話しかけられたらなるべく誠実に答えるくらいしかなかった。 かくして僕は傍観者の一員となったのだ。 でも身体的に何か危害を加えられている様にも見えなかったし、彼女達は毎日きちんと学校に来ていた。 先生に何とかしてもらおうとも思っていないようだった。 そもそも学校になんとかしてもらおうという気持ちは多分生徒全員持ってなかったと思う。 これは僕らの問題なのだから。 彼女達は僕が入った高校には一人も来なかった。だから彼女達がどんなその後を送ったのかは知らない。 中学時代と同じ様にひっそりと息をひそめ、嵐が去るのをただ待つ農民の様に過ごしたのか 僕なんかとは比べ物にならないくらいハッピーな煌めく高校生活を送ったのか… 高校2年の時に久しぶりに見かけた彼女は色白ですっとしたとても奇麗な女性になってて はっとしたなあ。あれはモテる娘だと思った。 期間が区切られてる閉鎖的な集団の中での問題は、大抵時間が解決するんだとその時思った。 僕の経験則。そしてその当時の僕に、もっと出来る事が有っただろうと言いたい気持ちも有るが 具体的にどうすれば良かったという方法は未だに見つからない。何かをして事態が悪い方に動いた可能性だって 確かに有るのだ。中学生とはそんな年頃なのだ。 みんな仲良くしなさい!って言われて全員「はーい!」って、世の中そんなに単純じゃない。 集団の中のヒエラルキー、虚栄心、集団ヒステリー、要素はたくさん有る。 イジメは起こる。普通に有る。有るのに無いと言うのは世の中を歪める第一歩だ。 無いと言ったら何かを隠さなきゃならなくなる。隠してくれるんなら、やっていいんだ。 以下ループ。どんなに自制心や道徳観を当てにしても、そういうのするやつには やっちゃダメの基準線をブラしてはダメだ。つけこんでくるぜ。

2012年5月9日水曜日

歳を取るということ



先日誕生日を迎えた。来年は不惑だ。

小さい時、誕生日という習慣に慣れるのに時間がかかった。
何がおめでたいのか分からなかったのだ。
誕生日当日に、昨日の自分と今日の自分の違いが理解出来なかった。
何だか賑やかな食事と、かんぱーいの言葉が飛び交う食卓の端っこで
冷めた小さい僕は思っていた。
「昨日も今日も明日も、同じように過ぎて行くというのに」

まあ男四人兄弟の三番目という家庭なので、我が家全体も誕生日イベントに対して
それ程思い入れも無かったように思う。
祖母も同居していたし、年に何回誕生日やればいいんや?感は有っただろう、家族全体で(母親は別として)。
両親は家業も忙しかったし、そもそも男兄弟は弟や兄に
心のこもったプレゼントなんかしない。多分。全国的に。
なので、誕生日の夜と言っても普段の食事と大して変わる訳ではなく
母親が思う「この子の好きな物」がおかずになる程度だ。
そしてプレゼントは特に無い。ケーキが好きな者なんて皆無で、当然として無い。
食事が終われば各自それぞれの日常に戻る。兄は部屋に入り父親は眠り母は食器の片付けをし
弟と祖母はテレビのチャンネル権を争う。それが小さい僕の誕生日ってやつだ。

大きくなってからも、その感覚はあまり変わらなかった。
何かが出来るようになったお祝いではなく、ただ一定の期間が過ぎた事に何の意味が有るのだろうと思った。
でも思春期には、思春期の男が全国的にそうだったように
早く大人になりたいと思った。
めんどくさいハイティーン、そして蛇行しながら嵐の様に過ぎ去る20代を経る頃には
全国的に誰もが感じる様に歳を取る感覚が無くなった。色んな書類の年齢を書く欄で
訂正ばかりしたものだ。次の年にも、その次の年にも。
そして全世紀で全国的に皆が思うように、歳なんか取りたくないなあと思った。
付き合いが増え、家族が増え、いくら祝ってくれる数や質が変容しようともだ。
体の線はだらしなく変わり、瞬発力は落ち、集中力が続く時間は短くなる一方だ…


でも、ここ何年かは違う。
何と言うか、悪くないのだ。
段々と心が身軽になってゆく感覚が有る。めんどくさい見栄や拘りや
人にどう見られたいとか、こう有るべきだとか
そういう荷物を置いて行ってるような気がする。
出来る事を全うすればいい、出来ない事は出来るように幅を広げる努力をすればいい。
それ以上望んでどうする感。
もちろん指針は有るのだけれど、焦ってないというか
少しでも前に進んでいればいつかはたどり着けるだろう、なにしろ前に進んでいるのだからな感。

家族からプレゼントを貰った。
嫁からはソフトボールのトレーニングシューズ。
ほんとはオニツカタイガーのスニーカーをリクエストしてたんだけど欲しい色が無かったので変えてもらった。
娘からは飛び出すバースデイカード。

この子は丁寧に物が作れるので感心してしまう。
息子からは手紙。


アナンダばりの忠誠心で中々いい手紙だけど、一つのテーマでゴリ押ししてしまうところが未熟。
面白おかしいフックや間抜けなエピソードを入れた方が多分伝えたい所が引き立つ。

悪くない。

2012年2月23日木曜日

死刑ゲーム

小学校の昼休み。何かの遊びでビリになった子が両手を水平に上げ、直立する。
僕らはその子から何メートルか離れたラインから背中に向けて皆でボールを投げる。
頭を狙う場合も有る。
そのうち罰ゲームがメインになり、その前の遊びは何でも良くなる。
子供達が何をしてもいい休み時間に、誰からも強制される事無く自然発生的に生まれ定着した遊びだ。

少年は中学校3年生だった。テニスに打ち込み、最後の大会に向けて
体の中から湧いてくる活力と希望を胸に学生生活を送っていた。そんな彼を病魔が襲う。
重度のネフローゼ症候群(腎臓疾患)。まあいわゆる難病だ。
絶対安静が必要なため入院。当然最後の試合なんてもってのほか。
ステロイド治療が功を奏し2ヶ月で退院。しかし再発。受験を控えた12月のこと。
病院内の養護学校に通う。病院から受験し北九州高専に入学。
好転しない症状から、免疫抑制剤へシフトを勧められる。抗がん剤だ。
リスクも有る。子供が出来ない体になるかもしれない。
吐き気、頭痛、脱毛、黄疸…体には様々な副作用が出る。だがそれしか手は無い。
しばらく続け、なんとか小康状態に持って行く。この命いつ終わるかも知れない。いつも全力で太く短く生きなければ。
 
大学4年生時、当時付き合っていた女性との間に一生出来ないかもと思っていた子宝が。
秋に入籍。学生でもあり、まだ一緒に暮らせるだけの余裕は無い。しかし守るものが出来た。
春から就職。研修先は県外。5月に出産。7月にやっと配属先が決まり家族で同居が可能に。しかしネフローゼが再発し入院。クリスマスと正月には外泊許可を貰ってなんとか家族で過ごす。この家族とのささやかな幸せをなるべく長く続けたい。
そして春。妻と娘がいたぶられ殺される。

参考資料:月刊WiLL2008年7 月号 「本村洋さん 難病と闘った凄絶な半生」(門田隆将)

死刑妥当と思う。5時間目が始まろうともボール投げつけるね。
まあ、例によってなかなか執行されないません。

さて、ここでいつものように死刑反対の人達がわさわさ湧いてくるんだけど
その人達の意見をちゃんと見てみようと思ってお勉強。自分が一つの意見で賛成だからといって反対の理由が一つである訳ではない。

・当時少年である

少年法は犯行時18歳未満の死刑適用を禁じているが、福田孝行当時18歳1ヶ月。アウト!

・精神疾患

弁護士の入れ知恵失敗。変な供述し始めるの遅すぎ。死体の隠蔽、財布の中の地域振興券盗んだり判断能力有りまくり。アウト!

・家庭環境が…

何の為に前半の文章書いたと思うのだ。辛い環境でも人は罪を犯さず自分を奮い立たせて生きて行ける。

・そんな死刑になるほどの重い罪じゃないし

この意見の人はあんまり居ない。過失でもないし。併合罪を加算する国だったら強盗+強姦+殺人×2+死体遺棄×2+器物損壊=懲役だったら何年?

・死刑制度自体に反対

ここが一番多いというか、もともと福田孝行(今は大月)を擁護しようと言う人は殆ど居なくて、
どんな残虐な犯人でも殺しちゃダメ!ゼッタイ!という人達。
その論拠も色々有るみたい。

・ルソーから連なる社会契約説ベース
人の権利は国家から与えられたものではなく、そもそも生まれながらにして持っているもので
一時的に国家に預けてあるに過ぎない。
そしてその一番大きな権利である生命というものを奪う権利なぞ、いち契約相手である国家なんぞに有る訳が無い。

日本では馴染みにくいかも知れないけど、時の王朝や貴族のパワーゲームで色んな国家にころころ踊らされた中性ヨーロッパ的な考え方ですね。
昔から住んでた場所が明日からドイツ領、明後日はフランス領とかなるんですから。

・刑の重さは強度ではなく時間
一瞬で済む死刑よりも、長期間に渡る刑の方が受刑者はきつい。これは、死刑よりも長い懲役の方が重いという考え方。ここは人によると思う。獄中生活も慣れる人は慣れるだろうし。日本には拷問刑は無いしなあ。仮釈放の可能性ゼロの終身刑。今の無期懲役と死刑の間のギャップを埋めるにはこの辺りが現実的かもしれない。

・人は変わるもの
更生の可能性。有るかも知れないし、無いかも知れない。生まれながらのクズ、死ぬまでクズって奴は確かに存在する。

・死刑制度が有る国は先進国の中では日本だけ。野蛮!
まあそうなんですけど。今有る刑法を変えようとするなら、それなりの手続きを踏んで下さいとしか言えない。

・冤罪リスク
ここら辺が論拠としては一番強いと思う。
人は間違う。懲役ならば服役中にやっぱ無罪でした、メンゴ!ってのも出来るけど
死刑執行した後にはそれも出来ないという。でもどこかの時点で判断を下さないといけない訳で。証拠もそろって自らも犯行も認めた場合にはいいんじゃないかと。


そして一番めんどくさいのが人権屋さんである。職業として、生業として人権を看板にしている人達だ。

例えば、わざわざ犯人と養子縁組をし名字を変えさせた大月純子さん。獄中の面会が親族に限られるからなのね。
日本基督教団牧師で「わたしたちの性と生を語る会・広島」代表、「ジェンダー広島」運営スタッフ、「男女共同参画を考える会ひろしま」共同代表。
元々福田姓も通り名なのかね。
安田好弘弁護士
数々の死刑が予想される普通の弁護士からは嫌われる事件を受けて来てこの世界で生き抜いて来た人。元全共闘。
亀井静香
死刑廃止を推進する議員連盟4代目会長

みんな仕事として役割を担ってる。その団体や任務にお金を払う人が居て、そのお金を受け取る以上やらない訳にはいかない。ただの正義感や主義信条だけで死刑反対言ってる訳ではない。

復讐は復讐を産むだけだ。そんな事は分かっている。
それでも事件当時に愛する妻と子供を持つ僕を含む日本の男性はみんな考えたものだ。考えたくもないのに。

「俺ならどうする?」

「俺なら、こうするよ、多分」当時、妻に話した。
ほぼ同じ事を会見で本村さんが話すのをテレビが流していた。

もし死刑じゃなければ、出所した所を俺が殺しに行く。

2012年1月17日火曜日

年始あるある

怒濤の年末年始をくぐり抜けて、時間にも余裕が出てきてほっとしたところで
色々と普段考えない事を考えた始めたりするよね。

時間の定義。考えるよね。
瞬間の連続?軸はひとつ?
高速移動中の物体と静止している物体で時間の速さが変わる?
それならもう、時間の軸なんて無数に有る訳で
僕とあなたの時間は別のものだし、あなたとその横に居る人も違う訳だ。
アンドロメダ星人と地球人でも。像とネズミだって違うんだから。
概念なので前提の時点で、自分と他者が同じ物を持っているとすると大きく間違える。
時計などの、人工的に尺度を作ってそれを表示する装置なんてものは
時間を実在するものと証明するわけではない。


大河ドラマ。見るよね。とりあえず。
去年の江は初回を見て「あ、これは少女マンガだ」と思った。
最終回までちゃんと全部通しては見てないけど、多分間違ってはいない。
女性からの人気も高かったらしい。
今回の平清盛は、画作りが気合い入ってるなあと思った。
天気雨の多さや砂埃は龍馬伝にも通じる黒沢映画へのオマージュだ。多分。
NHKの製作陣も大河に関しては視聴率に敏感だ。
海賊はパイレーツオブカリビアンとワンピースへのオマージュだ。多分。
俺オマージュ言いたいだけやん。多分。


年末年始が忙しいので、今の仕事を始めてから年々
お正月が目出たくも何とも無くなってくる。
中旬位からやっと気分が乗ってきて、はしゃごうと思っても
みんなはとっくに通常モード。ただの浮かれてる人扱いされる。

初詣に行った。おみくじは吉。
その神社が去年まで仕事で付き合いの有った方の実家だと次の日に知る。
もし事前に知っていても、大吉にしてもらえる訳ではもちろん無い。


なんとなくギターを弾いて曲を作る。映像にも挑戦してみる。
Youtubeにアップする。


家族がハードディスクに録画していたお笑い番組を見る。
多分、放送日に見たらもっと面白かったんだろうなと思う。
家族でこたつの場所なり、ソファーの位置なり取り合いをして。
なるべく席を立たないで済むように食べ物や飲み物を用意して。
トイレに行ってる間にポジションやチャンネルの変更などが行われないか注意して。
そういうのが必要なのだ。そういうのも含めて祝祭なのだ。
そういうのが多い人の方が強くなれる気がするのだ。
人生の中でどれくらいかは分からないけど
ひとつの単位、共同体として同じ物を共有し
ともに過ごす。
何物にも換える事の出来ない豊かな瞬間の連続。
それは例え、その人達が別の時間を生きていたとしてもだ。