2012年5月9日水曜日

歳を取るということ



先日誕生日を迎えた。来年は不惑だ。

小さい時、誕生日という習慣に慣れるのに時間がかかった。
何がおめでたいのか分からなかったのだ。
誕生日当日に、昨日の自分と今日の自分の違いが理解出来なかった。
何だか賑やかな食事と、かんぱーいの言葉が飛び交う食卓の端っこで
冷めた小さい僕は思っていた。
「昨日も今日も明日も、同じように過ぎて行くというのに」

まあ男四人兄弟の三番目という家庭なので、我が家全体も誕生日イベントに対して
それ程思い入れも無かったように思う。
祖母も同居していたし、年に何回誕生日やればいいんや?感は有っただろう、家族全体で(母親は別として)。
両親は家業も忙しかったし、そもそも男兄弟は弟や兄に
心のこもったプレゼントなんかしない。多分。全国的に。
なので、誕生日の夜と言っても普段の食事と大して変わる訳ではなく
母親が思う「この子の好きな物」がおかずになる程度だ。
そしてプレゼントは特に無い。ケーキが好きな者なんて皆無で、当然として無い。
食事が終われば各自それぞれの日常に戻る。兄は部屋に入り父親は眠り母は食器の片付けをし
弟と祖母はテレビのチャンネル権を争う。それが小さい僕の誕生日ってやつだ。

大きくなってからも、その感覚はあまり変わらなかった。
何かが出来るようになったお祝いではなく、ただ一定の期間が過ぎた事に何の意味が有るのだろうと思った。
でも思春期には、思春期の男が全国的にそうだったように
早く大人になりたいと思った。
めんどくさいハイティーン、そして蛇行しながら嵐の様に過ぎ去る20代を経る頃には
全国的に誰もが感じる様に歳を取る感覚が無くなった。色んな書類の年齢を書く欄で
訂正ばかりしたものだ。次の年にも、その次の年にも。
そして全世紀で全国的に皆が思うように、歳なんか取りたくないなあと思った。
付き合いが増え、家族が増え、いくら祝ってくれる数や質が変容しようともだ。
体の線はだらしなく変わり、瞬発力は落ち、集中力が続く時間は短くなる一方だ…


でも、ここ何年かは違う。
何と言うか、悪くないのだ。
段々と心が身軽になってゆく感覚が有る。めんどくさい見栄や拘りや
人にどう見られたいとか、こう有るべきだとか
そういう荷物を置いて行ってるような気がする。
出来る事を全うすればいい、出来ない事は出来るように幅を広げる努力をすればいい。
それ以上望んでどうする感。
もちろん指針は有るのだけれど、焦ってないというか
少しでも前に進んでいればいつかはたどり着けるだろう、なにしろ前に進んでいるのだからな感。

家族からプレゼントを貰った。
嫁からはソフトボールのトレーニングシューズ。
ほんとはオニツカタイガーのスニーカーをリクエストしてたんだけど欲しい色が無かったので変えてもらった。
娘からは飛び出すバースデイカード。

この子は丁寧に物が作れるので感心してしまう。
息子からは手紙。


アナンダばりの忠誠心で中々いい手紙だけど、一つのテーマでゴリ押ししてしまうところが未熟。
面白おかしいフックや間抜けなエピソードを入れた方が多分伝えたい所が引き立つ。

悪くない。